四国北部城巡りの2日目です。
松山城は2度目ですが、前回は観光で来たので今回はじっくり見ようと思います。
前回はロープウェイで登りましたが、今回は二の丸御殿跡にできた庭園の駐車場に車を止め、歩いて登ります。
松山城は、1602年(慶長7年)伊予国正木城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸と三之丸を有する平山城の築城に着手しました。1635年(寛永12年)に松平定行が15万石の藩主となり、以降、松山藩は四国の親藩として235年間続き、明治維新を迎えました。1642年(寛永19年)、創建当初五重であったという天守を、定行が三重に改築しました。
現在、城内にある建造物は、重要文化財:21,復興:30 となっています。
ちょっと雲行きが怪しい中、二の丸庭園の前を通り過ぎ、登城開始です。
二の丸櫓前
登り始めて約20分で大手門跡に到着しました。そこからU字に登って最初の遺構の戸無門(重文)に到着。形式は高麗門です。
戸無門(重文)
戸無門をくぐり左へ進むと、筒井門の右に隠門(重文)と隠門続櫓(重文)があります。
この門は背後から敵を奇襲するためのもので、埋門形式の櫓門です。
隠門(重文)
隠門続櫓(重文)
さらに進み、太鼓門を抜けると本丸です。
本丸から天守を望む
天守の美しい姿が見えました。鳥肌です。
松平氏の時代に天守を五重から三重へと建替えたようですが、五重であればもっと壮観だったのではと、ちょっと残念になります。。。
天守の入場券売り場で、休日の朝10時のみに野原櫓(重文)を公開すると聞き、10分ほど待って見ることにしました。
野原櫓は「騎馬櫓」とも呼ばれ、西北の本丸石垣に面して建てられた二重櫓で、大入母屋屋根の中ほどに2間半の2階を載せており、望楼起源説による「大屋根の上に造られた物見櫓から天守建築が始まった」とする論拠となる構造で、石落し狭間など加藤嘉明の築城当時の仕様がほぼそのまま残っています。
野原櫓(重文)
野原櫓内部
そこから天守本壇北側をまわって、いよいよ天守に向います。しかし天守へ至るまでに、さらにいくつもの門が待ち構えています。
本壇南側からの大天守
一の門
玄関と内門
天守丸の内門右にある入り口から天守(大天守1階?)に入りました。連結されている櫓や続櫓を通って大天守最上階に登城しました。
大天守内部(急な階段)
大天守最上階
天守は日本における最後の天守建築(桃山文化様式)であり、現存12天守の中で、唯一、親藩(松平氏)による普請であったため、丸に三つ葉葵の瓦紋が付けられています。
大天守から本丸を望む
本壇北側からの大天守
「松山城は姫路城に次いですばらしい」と感動しながら、帰りも歩いて降りてきました。
次は、しまなみ海道を渡って福山城を目指します。
資料
■築城者 加藤嘉明
■築城年 慶長7年(1602年)着手
■主な改修者 松平勝善
■主な城主 加藤氏、松平(久松)氏
■城郭構造 連郭式平山城
■天守 連立式層塔型三重三階地下一階
■遺構 現存天守、櫓、門、塀、井戸、石垣、土塁、堀
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昼食は、ちょっと豪勢に「鯛めし定食」です。鯛めしの味付けが絶妙で最高でした。
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