2011年3月20日日曜日

福山城 (重要文化財) 037

2011年3月20日 今回の城巡りツアーの最後に登城しました。

松山城からしまなみ海道を経て到着しました。
残念ながら、福山市に入った辺りから雨が降り出しました。
ふくやま美術館の駐車場に車を止め、雨の中、登城開始です。

福山城は元和8年(1622年)に完成し、新規の築城としては近世城郭で最も新しい城です。形式は輪郭式の平山城で、かつては二重の堀や瀬戸内海へ抜ける運河を持ち五重の天守と7基の三重櫓を有する大規模な城郭でした。


元和5年(1619年)、関ヶ原の戦い以降備後国・安芸国の二国を治めていた福島正則が武家諸法度違反のより改易されたことから、 徳川家康の従兄弟である水野勝成 が毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑え(西国の鎮衛)として、大和国の郡山藩から転封され、築城を開始したそうです。

駐車場は城郭の西側にあたる二の丸にあるため、本丸の南西から登城することになります。
まず目に入ってきたので、福山城で第一の目的であった伏見櫓(重文)です。

伏見櫓(重文)

伏見櫓は、三重三階で初重と二重は総二階造といわれる同規模の構造を持ち、その上に独立した構造の小さな望楼部を乗せる慶長初期の建築様式を残した望楼型の櫓です。壁仕上げは白漆喰総塗籠で長押形を施しています。桁行は8間(約15メートル)あり、並の城郭であれば天守に相当する規模です。この櫓は慶長6年(1601年)前後に建てられたと推定される伏見城(徳川)松の丸の東櫓を元和6年(1620年)に移築したものだそうです。天守を除けば熊本城宇土櫓と並び現存する最古の櫓のひとつだそうです。スゴイ!!!
実際に見ても、デカくて立派で美しいです。ア~晴れていないのが残念です。。。

さらに進むと、筋金御門(重文)の前に来ました。

筋金御門(重文)

筋金御門は、本丸の正門に位置する櫓門で、「筋鉄」の名称のとおり、1階の扉や門柱に筋状の鉄板が打ち付けられています。2階の門櫓には白漆喰総塗籠の柱に長押形が施されています。内部は公開されていないので、入ることはできませんでした。

こちらも立派です。やはり「復元」とは重みが違います。

筋金御門を入ると本丸になり、広い広場になっています。その広場の奥に天守がそびえています。

天守(外観復元)

福山城天守は、廃城後も破却を免れ昭和6年(1931年)には天守建築の最終完成形として国宝に指定されていたそうです。しかし、昭和20年(1945年)の福山大空襲で焼失してしまいました。その後、昭和41年(1966年)に天守が鉄筋コンクリートにより再建されました。内部は博物館になっています。
天守の南側には、二層三階の付櫓を持つ複合天守です。
大きさとしては非常に大きく、層塔型で美しいです。雨であったことと、時間が無かったため、天守の周りを見て回れませんでした。

その他本丸には、
・伏見城から移築後、消失し外観復元した月見櫓
・廃城時に取り壊され外観復元された鏡櫓
などがあります。

月見櫓(外観復元)
鏡櫓(外観復元)
 
全てを見れていないのが心残りとなったので、歴史博物館と合わせて再度登城したいと思います。


資料

■築城者 水野勝成
■築城年 1622年
■主な改修者 阿部氏
■主な城主 水野氏、松平氏、阿部氏
■城郭構造 輪郭式平山城
■天守 複合式層塔型5重6階(1622年)
■遺構 櫓・門・鐘楼、石垣

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登城後、ちょっと小腹がすいたので、福山駅南にある 朱華園 で尾道ラーメンを食べました。
味と麺を含めての感想は「チキンラーメン」???ちょっと好みが分かれそうです。




 
 

松山城 (重要文化財) 2度目

2011年3月20日に登城しました。

四国北部城巡りの2日目です。
松山城は2度目ですが、前回は観光で来たので今回はじっくり見ようと思います。
前回はロープウェイで登りましたが、今回は二の丸御殿跡にできた庭園の駐車場に車を止め、歩いて登ります。

松山城は、1602年(慶長7年)伊予国正木城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸と三之丸を有する平山城の築城に着手しました。1635年(寛永12年)に松平定行が15万石の藩主となり、以降、松山藩は四国の親藩として235年間続き、明治維新を迎えました。1642年(寛永19年)、創建当初五重であったという天守を、定行が三重に改築しました。
現在、城内にある建造物は、重要文化財:21,復興:30 となっています。

ちょっと雲行きが怪しい中、二の丸庭園の前を通り過ぎ、登城開始です。

二の丸櫓前

登り始めて約20分で大手門跡に到着しました。そこからU字に登って最初の遺構の戸無門(重文)に到着。形式は高麗門です。

戸無門(重文)

戸無門をくぐり左へ進むと、筒井門の右に隠門(重文)と隠門続櫓(重文)があります。
この門は背後から敵を奇襲するためのもので、埋門形式の櫓門です。

隠門(重文)
隠門続櫓(重文)

さらに進み、太鼓門を抜けると本丸です。

本丸から天守を望む

天守の美しい姿が見えました。鳥肌です。
松平氏の時代に天守を五重から三重へと建替えたようですが、五重であればもっと壮観だったのではと、ちょっと残念になります。。。
天守の入場券売り場で、休日の朝10時のみに野原櫓(重文)を公開すると聞き、10分ほど待って見ることにしました。
野原櫓は「騎馬櫓」とも呼ばれ、西北の本丸石垣に面して建てられた二重櫓で、大入母屋屋根の中ほどに2間半の2階を載せており、望楼起源説による「大屋根の上に造られた物見櫓から天守建築が始まった」とする論拠となる構造で、石落し狭間など加藤嘉明の築城当時の仕様がほぼそのまま残っています。

野原櫓(重文)
野原櫓内部

そこから天守本壇北側をまわって、いよいよ天守に向います。しかし天守へ至るまでに、さらにいくつもの門が待ち構えています。

本壇南側からの大天守
一の門
玄関と内門

天守丸の内門右にある入り口から天守(大天守1階?)に入りました。連結されている櫓や続櫓を通って大天守最上階に登城しました。

大天守内部(急な階段)

大天守最上階

天守は日本における最後の天守建築(桃山文化様式)であり、現存12天守の中で、唯一、親藩(松平氏)による普請であったため、丸に三つ葉葵の瓦紋が付けられています。
 
大天守から本丸を望む
 

本壇北側からの大天守

「松山城は姫路城に次いですばらしい」と感動しながら、帰りも歩いて降りてきました。
次は、しまなみ海道を渡って福山城を目指します。

資料

■築城者 加藤嘉明
■築城年 慶長7年(1602年)着手
■主な改修者 松平勝善
■主な城主 加藤氏、松平(久松)氏
■城郭構造 連郭式平山城
■天守 連立式層塔型三重三階地下一階

■遺構 現存天守、櫓、門、塀、井戸、石垣、土塁、堀



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昼食は、ちょっと豪勢に「鯛めし定食」です。鯛めしの味付けが絶妙で最高でした。
 

 

2011年3月19日土曜日

今治城 036

20110年3月19日 亀山城の後に登城しました。

閉城ぎりぎりの4時40分に到着。走って天守へ向いました。

慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城開始され慶長9年(1604年)に完成。縄張は三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができたようです。日本三大水城の一つに数えられています。

まず虎口にあたる鉄御門です。枡形になっていて、多聞櫓も共に復元されています。

鉄御門

鉄御門を入った三の丸を通り過ぎ、一気に天守のある本丸へと急ぎます。
天守は慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となるのと同時に丹波国亀山城に移築されました。そこでこの天守は、丹波国亀山城の古写真を元に建てられています。

天守(三の丸側から)

天守最上階からの眺めは、しまなみ海道と瀬戸内海を見渡せて最高です。また三の丸に復元された鉄御門や櫓が見えます。

天守最上階から三の丸

天守の入場券で 御金櫓、山里櫓、鉄御門 に入れたのに、閉館時間になり入れませんでした。非常に残念です。

虎口全景(蔵屋敷跡の駐車場から)

ここ今治城で、自転車でしまなみ海道を渡って来た友人と合流し、この日は奥道後温泉で1泊しました。

明日は松江城と福山城です。


資料

■築城者 藤堂高虎
■築城年 慶長7年(1602年)
■主な改修者 
■主な城主 藤堂氏、松平(久松)氏
■城郭構造 輪郭式平城(海城)
■天守 五重 不詳諸説あり(非現存・1608年)
■遺構 石垣、堀
 
 

丸亀城 (重要文化財) 035

2011年3月19日 高松城のあとで登城しました。

城内駐車場に車を止めて、いざ登城!!!

丸亀城は、慶長2年(1597年)豊臣政権の時代、高松城の生駒親正が支城として亀山に築いた城です。万治元年(1658年)播磨国龍野より京極高和が6万石で入封し、以後明治時代まで京極氏の居城となります。

 山麓から山頂まで4重に重ねられ総高60メートルの石垣は日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は22メートルあります。

まず城内西側に御殿表門があります。この門は京極氏の屋敷の表門にあたり、形式は薬医門です。この門に接して番所や長屋があります。

御殿表門

門を通り抜けて大手の方へまわりました。
内堀の外から大手二の門と天守の眺めは石垣の高さが良く分かり壮観です。


大手一の門(右),大手二の門(中央)と天守

大手門は大手一の門と大手二の門(共に重文)で枡形を作っています。この大手一の門は櫓門で、中に入ることができました。大手二の門は高麗門です。

大手一の門(重文)

急な坂道を登り、いくつかの門跡を超えて本丸に着きました。



本丸と天守(重文)

本丸は亀山の頂上で、広場になっていて天守以外は何もありません。
この天守は江戸時代に建てられたもので、実は御三階櫓だったのですが、現在は天守として扱われているようです。建物は唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られ高さは15メートルで、現存三重天守の中で最も小規模です。
内部は歴史の重みが感じられ、やはり現存はいいです!!!ただ小さいです。高松城の艮櫓ぐらいでは???


天守最上階


帰りは曲輪をまわりながら降りてきましたが、この城の魅力はやはり石垣です。幾重にも組まれた高い石垣が壮観です。

三の丸西側の石垣

支城ということもあり、こじんまりしていましたが、見ごたえと筋肉の疲労はありました。
 
 
次は今治城に向います。
 
 
資料

■築城者 奈良元安
■築城年 室町初期
■主な改修者 生駒親正、山崎家治
■主な城主 生駒氏、山崎氏、京極氏
■城郭構造 輪郭式平山城
■天守 複合式層塔型3重3階(1660年築)
■遺構 現存天守・門・長屋・番所、石垣、堀
 
 

高松城 (重要文化財) 034

2011年3月19日に登城しました。

今回は四国北部の4城と しまなみ海道 を渡り福山城に登城します。

高石市を8時に出発し、淡路島経由で四国に渡り、11時半に高松城に到着しました。
香川県立ミュージアムに車を止めて、いざ登城!!!

高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、天正15年(1587年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれました。縄張は黒田官兵衛とも細川忠興とも言われています。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものです。近世城郭の海城としては、最初で最大のもので、日本三大水城の一つです。

まずは旭門へ向いました。旭門の左側(南)に艮櫓(重文)があります。ここには元々太鼓櫓がありましたが、東の丸にあった艮櫓が移築されました。三層三階の入母屋造で優美な姿です。久しぶりに城の建造物を見たのでちょっと興奮しました。


艮櫓(重文)

中堀にかかる旭橋を渡り、旭門から桜の馬場へ入ります。内部は枡形になっています。

旭門

桜の馬場から桜御門跡を抜けて三の丸へ入ります。
三の丸西側から内堀越に天守台が見えましたが、現在改修工事中でした。


天守台(本丸)

明治時代には下の写真の様な天守が建っていたようです。


明治時代の天守

三の丸北側の北の丸には、月見櫓(着見櫓)と海城特有の水手御門(みずのてごもん)、渡櫓、鹿櫓(いずれも重文)があります。


月見櫓,水手御門,渡櫓

北の丸から水門の横を通り二の丸に入ります。水門で内堀は海と繋がっている為、内堀には小ぶりですが美味しそうな鯛が鯉のように沢山いました。
二の丸の南側に本丸と繋ぐ蛸橋が架かっています。


蛸橋

現在は工事中のため、残念ながら渡ることができません。この橋が唯一本丸へ渡る橋だったようです。

高松自動車道で事故があり、予定より遅れていた為、御殿を見ることができませんでしたが、予想以上に遺構が残っていて良かったです。
 
資料

■築城者 生駒親正
■築城年 1590年(天正18年)
■主な改修者 松平頼重、松平頼常
■主な城主 生駒氏、松平氏
■城郭構造 輪郭式平城
■天守 独立式層塔型三重四階地下一階(1669年改・非現存)
■遺構 櫓、門、渡櫓、石垣、堀


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登城後、丁度昼時だったので、高松城南側でたまたま見つけた手打ちうどん屋で 生醤油うどんを食べました。こしがあり、ちょっと塩味の麺がさすがに美味かったです。


次に丸亀城に向いました。