2010年4月17日土曜日

八尾城 址 012

2010年4月17日に訪れました。

地元に、過去、城があったことを知り、調べて訪れました。

現在は城跡も残っておらず、八尾神社の境内に写真の[碑]が残っているだけです。





なお詳細については、八尾市図書館のサイトによると、

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八尾城は、南北朝期の八尾の土豪八尾別当顕幸の築城と伝えられています。顕幸が南朝方に帰して後は、北朝方に占拠され、その河内における重要な拠点となります。


延元2年(1337年)、南朝方の高木遠盛らは八尾城の奪還をはかり、合戦となり ますが、その折の猛攻撃で、城内の堂社・仏閣・矢倉・役所などがことごとく焼失しました。八尾城はその後も、南北朝期・室町時代を通じて、幾多の合戦の舞台や陣地となります。

イエズス会日本年報によると、戦国時代末期、八尾城は信長配下のキリシタン武将池田丹後守教正の居城であり、城下には、数多くのキリシタンが住んでいたということです。その後、教正は秀吉により美濃に移封され、城は廃城となります。

なお、八尾城の所在地については、常光寺を含む西郷から木戸にかけての地域(現本町)であったとする“西郷説”と、旧大和川に面した別宮から八尾座にかけての地域(現南本町・高美町・安中町)であったとする“八尾座説”の2説があります。西郷説は、江戸時代の兵学者山鹿素行の描いた『八尾(矢尾)城図』を、八尾座説は、「古城跡無御座候」という記載のある『西郷村差出明細書(江戸中期)』や城を想定させる小字名、堀跡とも見られる遺構の存在などを主要な論拠にしています。

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