2010年4月25日日曜日

大和郡山城 014

2010年4月25日に登城しました。

伊賀上野城の帰りに立ち寄りました。
JR郡山駅からは徒歩で15分くらい、城下町の街並みを期待していたのですが、普通の住宅地でした。外濠が緑地公園になっているので、その一部を歩いていきました。

外濠跡の碑

鉄御門跡を通り本丸へ

本丸にある天守台
横に柳澤神社があります

結構立派な堀が残っています

追手門櫓と追手門隅櫓

追手門


資料
■築城者 筒井順慶
■完成 1580年(天正8年)
■主な城主 豊臣秀長(天正13年),増田長盛,水野勝成(元和元年),柳澤吉里(享保9年)
■縄張 輪郭式 (明智光秀)
■立地 平山城
■天守 不在(竣工当時:5層6階?)
■遺構 追手門(梅林門),追手向櫓、追手東隅櫓,多聞櫓,移築門(現存),石垣,堀

伊賀上野城 013

2010年4月25日に登城しました。

JR大和路線と関西本線を乗り継いで行きましたが、関西本線が単線で2両のワンマン電車だったのには驚きました。ICOCAが使えず精算できませんでした。伊賀上野駅からは伊賀鉄道で上野駅まで行き、そこからは徒歩で数分です。

門や櫓は残っていませんが、模擬の天守が天守台に復興されています。
元々天正13(1585)年に筒井定次が三層の天守を築いていましたが、慶長13(1608)年に縄張を含めて大拡張を行い、五層の大天守を建設したが、竣工直前に暴風雨で倒壊してしまった。
現在の天守は昭和10年に復興されたものです。

天守台東側から

天守登城口

天守西側の日本一の高石垣

水面に見える小さな黒い点は亀です

西側から高石垣と奥に天守


資料
■築城者 筒井定次
■築城年 1585年(天正13年)
■主な城主 藤堂高虎
■縄張 独立型
■立地 平山城
■天守 層塔型3層3階(木造・1935年模擬)
■遺構 石垣,堀


帰りに、藤堂藩藩校 崇廣堂 に立ち寄りました。
門や講堂が残っています。

崇廣堂 表門

昼食は崇廣堂近くの 田楽座わかや 豆腐田楽の定食を食べました。味噌だれが最高で、その味噌のついたごはんもまた格別でした。

豆腐田楽の定食

関西本線のディーゼル列車

2010年4月17日土曜日

八尾城 址 012

2010年4月17日に訪れました。

地元に、過去、城があったことを知り、調べて訪れました。

現在は城跡も残っておらず、八尾神社の境内に写真の[碑]が残っているだけです。





なお詳細については、八尾市図書館のサイトによると、

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八尾城は、南北朝期の八尾の土豪八尾別当顕幸の築城と伝えられています。顕幸が南朝方に帰して後は、北朝方に占拠され、その河内における重要な拠点となります。


延元2年(1337年)、南朝方の高木遠盛らは八尾城の奪還をはかり、合戦となり ますが、その折の猛攻撃で、城内の堂社・仏閣・矢倉・役所などがことごとく焼失しました。八尾城はその後も、南北朝期・室町時代を通じて、幾多の合戦の舞台や陣地となります。

イエズス会日本年報によると、戦国時代末期、八尾城は信長配下のキリシタン武将池田丹後守教正の居城であり、城下には、数多くのキリシタンが住んでいたということです。その後、教正は秀吉により美濃に移封され、城は廃城となります。

なお、八尾城の所在地については、常光寺を含む西郷から木戸にかけての地域(現本町)であったとする“西郷説”と、旧大和川に面した別宮から八尾座にかけての地域(現南本町・高美町・安中町)であったとする“八尾座説”の2説があります。西郷説は、江戸時代の兵学者山鹿素行の描いた『八尾(矢尾)城図』を、八尾座説は、「古城跡無御座候」という記載のある『西郷村差出明細書(江戸中期)』や城を想定させる小字名、堀跡とも見られる遺構の存在などを主要な論拠にしています。

2010年4月7日水曜日

姫路城 (世界遺産 国宝) 011

2010年4月7日に登城しました。

12日から大天守の修理工事が始まるため、連日大混雑との噂を聞いていたので、JRの《関西1デイパス》を利用して、頑張って10時前に到着しました。

天気がアイニクの曇り空だったのが非常に残念ですが、晴れてくるのを願って、目指せ天守!!!

大手門をくぐって三の丸に入ると、正面に大天守と西小天守が見えました。

三の丸から大天守と西小天守

登閣口を入り坂を登ると 菱の門 があります。

菱の門

菱の門を入ると三国濠があり、そこからの大天守と小天守の眺めに鳥肌がたちました。

大天守と乾小天守(左)と西小天守(右)

菱の門を正面に進むと いの門 があります。

いの門

いの門から ろの門 を抜け、細い坂を登ると はの門 があります。

はの門

はの門から また坂を登り にの門 と 油壁ほの門 を抜け、いよいよ天守の石垣の下へ出ます。そこから 水一門 から順に 水五門  までを抜けると、やっと天守の入り口まで来ました。

天守入り口(大天守と西小天守の間)

遂に大天守に登城します。

2階 武者走り

大天守からの乾小天守

大天守からの西小天守

これはちょっと珍しい 中五階

大天守から西の丸を望む

大天守から菱の門を望む

大天守最上階 長壁神社
最上階もけっこう広い

大天守を降りて、小天守を順に回ります。

東小天守と乾小天守を繋ぐ渡櫓

西小天守から西の丸の化粧櫓を望む
千姫が化粧をしていた部屋と言われている

天守北側の 腰曲輪 に、姫路城に収められた武将の瓦紋が展示されていました。

武将の瓦紋

二の丸を横切って ぬの門 

ぬの門

ぬの門を抜けると 上山里 へ出ます。
ここから天守がマジカに見れます。

上山里からの大天守と西小天守

一旦菱の門へ戻って 西の丸 へ行きました。
ここからの天守は最高で、天守台がいかに高いかがわかります。

西の丸からの大天守と乾小天守,西小天守


姫路城を出て、城北側にある《兵庫県立歴史博物館》へ行きました。
ここでは、姫路城に関する簡単な展示ですが無料で見れ、ちょうど昭和31年から行われた「昭和の大修理」の記録映画を見ることができました。

兵庫県立歴史博物館にあった姫路城の構造模型

3時間歩きづめでクタクタになりました。
この後、明石城へ行って明石焼を食べるつもりでしたが、今回は諦めました。


資料
■築城者 赤松貞範
■築城年 1346年(南朝:正平元年/北朝:貞和2年)
■主な城主 黒田孝高,池田輝政
■縄張 連続型
■立地 平山城
■天守 連立式望楼型 5層6階地下1階 現存
■遺構 国宝(大小天守・渡櫓等8棟) 国の重要文化財(櫓,渡櫓27棟,門15棟,塀32棟)

2010年4月4日日曜日

大坂城 西の丸

2010年4月4日 西の丸庭園へ花見に行きました。

西の丸庭園は有料なので普段は入りませんが、花見なので奮発して入りました。
桜は満開でもちろん綺麗でしたが、大坂城の眺めが最高でした。
普段は桜門側から見ていますが、西の丸側から見た方がカッコいいような気がしました。







2010年4月3日土曜日

長浜城 010

2010年4月3日 彦根城の後で登城しました。

天守は真新しく、当時の石垣や堀も周辺には見つけられなかったので、「単に城の形をした博物館」に入ったような気分でした。
特に感動や感想もありません。

拝観後に隣にある「国民宿舎 豊公荘」で温泉に入りました。
少し寒かったので、とっても温まりました。


天守(東側)

天守(南側)

長浜城 本丸跡碑


資料

■築城者 羽柴秀吉
■築城年 1573年(天正元年)
■主な城主 柴田勝豊,山内一豊
■縄張 不明
■立地 平城
■天守 模擬(3層3階)

彦根城 (国宝) 009

2010年4月3日に登城しました。

友人の『青春18切符』に便乗して来ました。
5城目の現存天守で、重要文化財もあるので楽しみでした。

まず《馬屋(重要文化財)》を見ました。
この規模の馬屋が残っているのはここだけようで、建物はL字型になっており、21頭が収容できるようになっています。

馬屋(重要文化財)

表門を通り、堀切にかかる橋の向こうに《天秤櫓》がありました。門を中心に左右対称な為そう呼ばれたそうです。

天秤櫓

天秤櫓を抜け坂を登ると《太鼓門櫓(重要文化財)》があります。
ちょうど太鼓門櫓を抜けた時に ひこにゃん が登場し、本丸に人だかりができました。

太鼓門櫓(重要文化財)

本丸が ひこにゃん で賑わっている間に天守に入りました。
小ぶりですが重みがあり、やはり現存はいいですね!
ただこの天守の階段は異常に急で、上り下りが結構大変でした。

天守(国宝)

その後《玄宮園》に行きました。庭からの天守がかなり絵になり綺麗でした。


資料
■築城者 井伊直継
■築城年 1607年(慶長12年)
■主な城主 井伊氏
■縄張 連続型(並立式)
■立地 平山城
■天守 複合式望楼型 3層3階地下1階 現存
■遺構 国宝(天守等2棟) 国の重要文化財(櫓,門,馬屋等5棟) 再建造物(御殿)

 
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昼食は、キャッスルロードにある《近江や》で『近江牛一口ステーキ御膳(1700円)』を奮発して食べました。

一口ステーキ御膳