2012年10月28日日曜日

大坂城 <重要文化財> 4度目

2012年10月28日 4度目の登城です。

現存規模最大の枡形門が見たくなり、地元の大坂城へ行きました。
いい天気で、この季節にしては暑いぐらいです。

現在の大阪城公園マップ

地下鉄谷町4丁目で降り、東に5分ほどで外堀と六番櫓(重文)が見えました。
何度も見ている景色ですが、他の城郭を訪れて比較すると、この堀の幅は別格です。

南外堀と六番櫓

六番櫓の創建は寛永5年(1628)で2層櫓です。昭和20年の空襲と同25年のジェーン台風による被害がひどく、同41年の解体修理のさい大幅な木材取り替えなどが実施されたそうです。
外堀沿いに北へ進むと大手門があります。

大手門前の大手土橋

大手門の左側に千貫櫓(重文)があります。

千貫櫓

2層の隅櫓で、元和6年(1620)に小堀遠州の設計で造営されました。西の丸庭園の西南隅にあって、西の丸庭園西北隅の乾櫓とともに現存最古の建造物です。千貫櫓(せんがんやぐら)の名は、石山本願寺時代に織田信長の軍勢が攻撃を繰り返したとき、この付近にあった隅櫓からの横矢攻撃に悩まされた攻め手の将兵らが、「千貫文払ってでもあの櫓を手に入れたい」と話し合ったことに由来すると伝えられており、その頃から続いた呼称だそうです。
大手門(重文) は大坂城の正門で、古くは追手門とも書いたそうです。寛永5年(1628)の創建で、
高麗門様式です。幕末の嘉永元年(1848)に修復されています。  

大手門

なお大手門の両側のも現存で重文です。

大手門(門内から)

大手門内は広大な枡形になっています。下の写真は、正面が多聞櫓で左が続櫓(続多聞)です。

大手門枡形内

続櫓の石垣に大手見付石と大手二番石という巨石が用いられていて、その巨石と巨石の隙間に積まれたユニークな石積みを笑い積みというそうです。

笑い積み

大手口桝形多聞櫓(重文)は寛永5年(1628)の創建ですが、天明3年(1783)に落雷で焼失し、その後、嘉永元年(1848)に再建されました。この櫓の鉄(くろがね)門を大手の大門といい、上部を渡櫓といいます。

大手口桝形多聞櫓

城内側にも巨石が多数用いられています。

大手口桝形多聞櫓(城内側)

さらに太鼓櫓跡を入ると、正面に石山本願寺推定地があります。
天文元年(1532)、山科本願寺が戦国の争乱に巻き込まれて焼き討ちに合い、逃れた十世証如らは、翌年大坂御坊を本願寺としました。この石山本願寺は、堀・塀・土塁などをもうけて武装を固め、戦国武将細川晴元らの攻撃に備えたため、次第に難攻不落の城砦として強化されました。また、次第に寺内町も発展し、11世顕如の代に本願寺隆盛の絶頂期を迎えます。
元亀元年(1570)から11年に及ぶ長い戦争の結果、天正8年(1580)織田信長は顕如を本願寺から退去させることに成功したが、堂塔伽藍は全焼し、現在まで遺構は確認されていないようです。
信長は本能寺の変に倒れましたが、羽柴秀吉がその意思を引き継いで築城したと思われます。

石山本願寺 推定地

この辺りは市正曲輪と呼ばれていたそうです。
さあ、桜門(重文)から本丸に入りましょう!
桜門の名は豊臣時代以来のもので、この付近に見事な桜並木があったので、名付けられたそうです。 この桜門は枡形になっていて巨石群で囲まれています。城内第1位の蛸石、第3位の振袖石をはじめ、巨石がめじろ押しに並んでいます。これらの巨石は領内に花崗岩を産出する島を持っていた岡山城主池田忠雄が運ばせたものです。

桜門

そして桜門枡形を抜けると、いよいよ天守の正面に出ます。
現在の天守は、市民の寄付金により1931年(昭和6年)に竣工したもので、徳川大坂城の天守台石垣に鉄筋鉄骨コンクリートで建てられています。外観は、大坂夏の陣図屏風を基に、初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁となっている一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴の絵が描かれています。
豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも短期間に焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後80年を迎え、最も長命の天守になりました。1997年(平成9年)9月3日、国の登録有形文化財に登録されています。

天守

天守の北側に回りました。逆光で写真が暗くなったので白黒にしてみました。古写真のようで、中々いいでしょう。

天守北側

天守北側の石垣
真ん中あたりが盛り上がってきています

真田幸村 発見!

本丸西側に帯曲輪があります。この曲輪は、入口を狭くして気付かれにくくし、戦闘時に兵士を隠したそうです。この曲輪から見える本丸の石垣には刻印のある石が多数使われています。

刻印のある石垣

極楽橋を渡って内堀を西に進みました。西側の堀も広大で複雑な形をしています。

内堀西側

京橋口を出て西外堀を西に進むと乾櫓(重文)があります。

西の丸の西北(戌亥)隅を守る隅櫓で、千貫櫓同様、元和6年(1620)に小堀遠州の設計で造営された城内最古の建造物です。平面L字形で総2階造の珍しい形式の2層櫓です。この上に望楼を乗せた形が天守の原型とされ、櫓としては古い形式となっています。

乾櫓


京橋口を出ると正面に追手門学院がありますが、その裏にあるドーンセンターの一角に豊臣時代大坂城三の丸北端の石垣(移築復元)があります。この石垣は、大坂冬の陣の講和条件として徳川家康によって取り壊されたもので、同センターの建設工事時に地中から発見されたものを移築復元したそうです。豊臣時代大坂城の貴重ないこうですね!

豊臣時代大坂城の石垣


大坂城はまだまだ見切れていません。当日は天守閣で「秀吉の城」というイベントを開催していました。今回は時間が無かったので、また近々訪れましょう。






1 件のコメント:

  1. 読者のTUGARUです。
    大阪城いいですよね。作りだけなら、皇居にも勝るとも劣らない城ですね。最近、名古屋城が気になっている次第です。
    NHKのある番組では、当時の江戸城より大きかったとか。
    大阪ー名古屋ー江戸
    城郭の大きさも当時の人の気持ちがわかって面白いものです。

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