2012年10月13日土曜日

高取城  2度目

2012年10月13日に登城しました。

今回は2度目です。前回は2年前の高取お城祭り(11月23日)の時でした。本丸で寒かったので、今回は10月にしました。天気も気温も最高の日です。

高取城は、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城です。現在は石垣しか残っていませんが、当時山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建ち並び、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われたそうです。(土佐とは高取の旧名です)

高取町にあった看板


上図の様に曲輪の連なった連郭式の山城で、周囲約30キロメートルに及ぶ、日本国内では最大規模の山城です。
築城は、南北朝時代に南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられており、織田信長が本能寺の変で横死した後、天正12年(1584年)に筒井順慶が支城網の一つとして本格的城塞へと改めました。その後、豊臣秀長が郡山城に入城した際、高取城も秀長の配下となり、大きく改築されました。
明治6年(1873年)に廃城となり、入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却された。明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたらいしいですが、管理されることなく自然倒壊したそうです。もったいなすぎる!!!

近鉄壺阪山駅からしばらく城下町を歩きます。途中、いくつか当時の建物が残っています。
下の門は、旧高取城の下屋敷門を移築したもので、現在石川医院の門になっています。この医院は代々御殿医として高取藩に仕えたそうです。

下屋敷門

城下町から外れた所に植村家長屋門があります。門内には東西に各4室の部屋があり、江戸時代には高取藩に仕える武士たちがそれぞれの部屋に住んでいました。

植村家長屋門

さらに進むと、完全に登山道になります。
そして黒門跡に到着!ここから城内です。

黒門跡

山の中に石碑が


石垣が現れ始めたところで国見櫓跡があります。名前のとおり眺めは最高で、二上山の左には大阪市内のビル郡まで見えます。

国見櫓からの眺め

石垣が現れ始めると疲れは感じなくなり、足取りも軽くなります。ワクワク!

宇陀門

ついに大手門に到着!ここからの眺めは2度目ですが鳥肌がたちます。この山中によくこれだけの石垣が築けたものです。

大手門前

大手門

二ノ丸

十五間多門

十五間多門を入ると天守台が見えます。天守台の石垣は打込みハギで、隅部は算木積みで反りのない造りかたです。巨大で美しい!

天守台

本丸虎口

本丸部分の大きさは東西に75メートル×南北に60メートル、高さは約8メートルの石垣に囲まれています。南西には3重3階の「小天守」があり、大きさは東西12メートル×南北13メートルだったようです。また東側には2重3階の「硝煙御櫓」があり、虎口付近、「具足櫓」対岸には平櫓の「鉛御櫓」があったようです。このように本丸は、1基の天守と1基の小天守、3基の櫓が多門櫓で連結された連立式天守の縄張りでした。

本丸から見た天守台

天守は本丸の北西に位置にあり、天守台には通路が約3メートルの穴蔵を設けています。天守の大きさは東西に約16メートル、南北に約14メートルの規模で「御天守」と呼ばれていました。外観は千鳥破風、2重目の中央に出窓形式、3重目には軒唐破風があり、外壁は白漆喰総塗籠であったようで、外観3重、地下1階の天守であったようです。また、天守台の東側には付櫓台が属しており、2重の「具足櫓」が建っていたと考えられています。

天守台から見た本丸

下山は同じ登山道をとりました。新たな発見を期待してのことでしたが、友人が右側の少し奥行った所に池を見つけました。これは二ノ門下の堀に間違いないでしょう。

堀跡(右に石垣が続いています)


高取城はやはりすごいです。次回は桜の季節に来たいです。


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今回の昼食は新櫓の上で天守台を望みながらパーティです。
友人の一人が、自転車での日本縦断を果たしたお祝いです。おめでとう!!!
こんなところでアルコールを飲んで、無事に下山できるだろうか? と少し心配しながら飲みましたが、途中でスズメバチに襲われ酔いが醒めました。

お弁当はその友人の奥さんの手作りをいただきました。美味しかったぁ~!
奥さん、ご馳走様でした。

ワインとビールで乾杯!


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