福知山城は現在、福知山城公園として整備されています。その公園駐車場(無料)に車をとめて、いざ登城!!!
駐車場からの天守
福知山城は、明智光秀が築造後、有馬豊氏時代に完成したものと推定されています。
丘陵の最先端部の一番高い所に本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つの連郭式城郭を形成していました。本来は本丸と二ノ丸は繋がっていましたが、明治時代に二の丸が削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていましたが、福知山線の建設に伴いそれぞれ独立丘陵となってしまいました。その他曲輪として北側には左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸、南側には、泉水、蔵屋敷、馬屋、鷹部屋、庭園などを設け、周囲に二重、三重の堀を巡らしていました。城下町としては、北方に鍛冶町、紺屋町、鋳物師町、呉服町、京町などの町家、川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、東北には斜めに由良川が流れ、西、南に外堀が巡らされている。いわゆる惣構えとなっていました。
丹波国福地山絵図
本丸へは東側の坂を登って登城します。
外観復元天守が現れました。壁面が板張りなので木造のように見えますが、実は鉄筋コンクリートで内部は郷土資料館です。続櫓で小天守と連結されています。
大天守(中央)と小天守(左)
3層ですがどっしりと風格があります。
天守の向いには、唯一の現存遺構である銅門番所が建っています。元は二ノ丸の登城路付近にあったものを、後に本丸へ移築したそうです。貴重な遺構だからもう少しきちんと管理すればいいのに。。。
銅門番所
福知山城の石垣には、多数の転用石が利用されています。多くの寺院や墓所を破壊して、五輪塔や石仏などを用いて石垣を積んでいます。このバチあたりが。。。
石積みは穴太積みがメインです。
大天守石垣の転用石
天守内の郷土資料館に入りました。
下の写真の木の奥、大天守と小天守の連結部には縁側をとった座敷が再現されています。城には珍しいです。これは明智光秀の趣味からでしょうか?
左下が大天守入り口
どこの城跡もそうですが、城郭の大部分が都市計画で潰されているのは非常に残念です。
資料
■築城者 明智光秀
■築城年 1579年(天正7年)
■主な改修者 有馬豊氏
■主な城主 明智氏、朽木氏
■城郭構造 連郭式平山城
■天守 複合・連結式望楼型(1699年(元禄12年)築)
■遺構 曲輪、石垣、井戸、移築番所・門
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