2011年6月18日土曜日

伏見城(木幡山) 039

2011年6月18日に登城しました。

あいにくの天気でしたが、伏見を散策することになり、その〆で伏見城に登城しました。
御香宮神社で伏見城の移築大手門を見てから、延々と続く緩やかな上り坂を歩いて、疲れたころに到着しました。

大手門は模擬ですが、結構立派です。

大手門

大手門を入り、天守が正面に見えました。模擬ですが予想していた以上に立派です。石垣も綺麗に積まれていますが、所々補強の跡が見られます。天守は耐震基準を満たしていないことから内部非公開となっているようです。

大天守と小天守

伏見城は3度築城されています。最初の城は1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため指月山に建設されました(指月山伏見城)。この指月山伏見城は地震で倒壊し、近隣の木幡山に再築されたました(木幡山伏見城)。この木幡山伏見城(豊臣期)のものは、伏見城の戦いで焼失し、徳川家康によって再建されています。豊臣期の伏見城は、豪華な様式だったようです。

松の丸 絵図

木幡山伏見城時代の縄張りは、標高約105mの木幡山丘陵一帯に比較的複雑な縄張りをしています。本丸部分は東西約200m、南北約300mの長方形、本丸西側には側室「淀殿」の御殿があった二の丸(西の丸)、北東側には側室「松の丸殿」の御殿があった松の丸、東側には名護屋丸、南側には四丸(増田長政丸)を配して、北側には、本丸から松の丸そして出丸を介して、北側一帯曲輪群(4つの曲輪)と連絡する。更に二の丸の南西側には、側室「三の丸殿」の御殿があった三の丸、そこから北西側には治部少丸(石田三成丸)を配し、その南側に大手が推定されています。この城の特徴として、城南東部に山里丸、茶亭学問所の空間があり、その先に宇治川に繋がる舟入場が設けられていたようです。


伏見城廃城後は伏見奉行所の基管理され、幕末まで立入禁止となっていたらしいが、本丸跡などの主郭部分は明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたため、現在は立入りが禁じられています。現在模擬天守が建っているところは、伏見城花畑跡にあたるようです。
本丸部分に入れなく、石垣などの遺構も残っていないのは非常に残念ですが、各地に移築された遺構が残っているので、それを探訪するのもまた楽しいです。
※探訪記録を「★伏見城の遺構探訪」ページに更新しています。



資料

■築城者 豊臣秀吉

■築城年 1592年(文禄元年)
■主な改修者 徳川家康
■主な城主 豊臣氏、徳川氏
■城郭構造 不明
■天守 不明
■遺構 移築建造物多数


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昼食は鳥せい本店で千姫御前(1,200円)と神聖大吟醸(580円?)を注文しました。鳥づくし的な内容で、どれも美味しかったです。大吟醸も深みがあり、今まで味わったことのない感じでした。


※とりラーメンがかなり美味しそうだったので、もう一度行きたいです。

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