今回の城巡りの最後の目的地です。
善光寺については、下記のブログを見てください。
http://kokuhou-kenzou.blogspot.jp/2012/08/blog-post_26.html
善光寺から高速道路で約30分で到着しました。
上田城は真田昌幸により16世紀の末、安土桃山時代に築かれました。そして、その築城後まもない時期に昌幸は二度も徳川氏の大軍に攻められながら、この城に立てこもって、これを撃退したことで知られています。
この上田城は上田盆地のほぼ中央の地に位置する平城〔ひらじろ〕で、千曲川(その分流尼ヶ淵〔あまがふち〕)に望む段丘の崖〔がけ〕を利用して築城されています。現在、公園化されているのは、本丸・二の丸と周囲の濠跡の範囲です。
真田氏の築いた上田城は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に破壊されてしまいます。建物はもちろん壊され、濠も埋められてしまいました。これは関ヶ原合戦のおり、真田昌幸・幸村(信繁)父子が西軍につき、上田城に立てこもって、徳川秀忠軍が西へ向かうのをくい止めたことに対する処分のひとつであったためです。
真田氏のあと上田藩主となった仙石忠政は、幕府の許可を得て寛永3年(1626)から上田城復興工事にとりかかっています。この時の縄張については、城普請について指示した忠政の覚書きや真田氏時代の瓦の出土状況などからみて、埋め堀をふたたび掘りあげるなどして、元の姿に戻すことを基本としていたようです。
二の丸橋(駐車場入口)
さあ、入りましょう!ボランティアの真田十勇士が迎えてくれます。
南櫓と東虎口櫓門
東虎口櫓門と北櫓
東虎口櫓門の正面右手の石垣に「真田石」があります。高さ約2.5m・横約3mの大石で.真田昌幸が築城の折り柱石として据えたものと伝えられています。真田信之が松代へ転封に当たって父の形見に持ち運ぼうとしたが、大勢の人の力をもってしてもびくとも動かなかったと伝えられています。
真田石
真田十勇士と記念撮影。なぜか現在の筧 十蔵(かけい じゅうぞう)は可愛い女の子!
現在の筧 十蔵(かけい じゅうぞう)
東虎口櫓門を入って左側から、櫓と櫓門に入れます。
建物については、本丸の周囲に7棟隅櫓のうち3棟が残っていてます。
上田城は明治7年(1874)に払い下げとなりました。本丸の隅櫓についても一つを残して、あとは取り壊されたのですが、このうち二つについては、市内の別の場所に移されていました。 しかし戦時中の昭和18年(1943)から戦後にかけて、本丸入口の現在の場所へ再移築されました。また、近年本丸東虎口の櫓門が再建されました。
南櫓2階
北櫓1階
本丸
六文銭の旗印
西櫓
内堀
本丸から虎口
城跡南側から南櫓
城跡南側から西櫓
上田城主屋敷門
資料
■築城者 真田昌幸
■築城年 1583年(天正11年)
■主な改修者
■主な城主 真田氏、仙石氏、松平氏
■城郭構造 梯郭式平城
■天守 不明
■遺構 櫓、石垣、土塁、堀
■再建造物 門
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昼食は、上田駅近くの力亭でヒレかつ定食(1570円)を食べました。やわらかくて絶品でした。
上田近郊は何故かとんかつ屋さんが多いです。
ヒレかつ定食
また帰る途中、飯田ICで一旦降りて温泉に入りました。
立ち寄ったのは、天空の城 三宜亭本館です。(800円)
駒ケ根の中腹にあり、風呂からは絶景が眺められました。
天空の城
この宿は飯田城跡にあるようで、手前の長姫神社に写真のような看板がありました。
飯田城は、建保年間にこの地の地頭に任じられた坂西長由によって築かれたと言われています。 戦国時代には、天文23年に武田信玄が伊那に侵攻して、永禄5年に伊那郡代となった秋山信友が坂西氏築城の飯田城を堅固な城へと改築します。武田氏滅亡後、伊那10万石の領主として毛利秀頼が入城、次の京極高知が文禄2年に飯田城を近世城郭へと改修しています。
長姫神社の看板