2011年11月12日土曜日

二条城 (世界遺産 国宝) 2度目

2011年11月12日に登城しました。

当日は二条城お城まつりのイベントで「二条城建物めぐり」が9時半からあったので、早めの9時に行ったのですが、その時点で定員に達していて参加できませんでした。ショック!!!

しかし当然、折角来たので登城しました。今回はいい天気でよかったです。
地下鉄東西線 二条城前駅 を出ると、いきなり東南隅櫓(重文)の前に出ます。

東南隅櫓

二層の美しい櫓で、二条城が城であることを感じさせる数少ない遺構です。
入城料(600円)を支払って東大手門(重文)から入ります。

東大手門

東大手門は本瓦葺で入母屋造り、妻は木連格子、棟には鯱が飾られています。形式は櫓門で石垣と石垣の間に渡櫓を渡して、その下を門とした形式になっています。
さすが立派です。

東大手門を入り左に進むと唐門(重文)があります。ここが二ノ丸の入口です。

唐門

唐門は切妻造、桧皮葺の四脚門でその前後は唐破風造となっています。見事な彫刻がふんだんに使われています。
二ノ丸に入ると正面に二ノ丸御殿の車寄遠侍(国宝)の前に出ます。左に大広間(国宝)の建物も見えます。

二ノ丸御殿(車寄と遠侍)

二ノ丸御殿は、手前から順に遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間蘇鉄の間黒書院白書院と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっています。これらは全て国宝です。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園があります。遠侍の北側、白書院の東側には台所(重文)と配膳をするための御清所(重文)と呼ばれる建物があります。

二ノ丸御殿内部は写真撮影禁止なので非常に残念です。

大広間にある一の間は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が明治天皇に政権を返上した大政奉還が行われたところです。(左の写真はインターネットより入手)


二ノ丸御殿を出て、二の丸庭園の方へ行きました。

二ノ丸庭園と黒書院

二ノ丸庭園は別名「八陣の庭」と言われ、作庭家で有名な小堀遠州の代表作であり桃山様式の池泉回遊式庭園です。が、私には、回遊して落ち着ける庭ではないかな。。。

次に本丸へ向います。
まずは本丸櫓門(重文)です。

本丸櫓門

内堀にかかる東橋を渡ったところにあるちょっと中華風な門です。城門としては珍しいかも。

本丸に入って、まずは天守台へ。
創建時の天守は、慶長期に家康によって現在の二ノ丸北西隅に建てられたもので、大和郡山城の天守を移築した可能性があるそうです。この天守は3代家光の時に行われた寛永の大改修時に淀城に移築されています。
現在の天守台にそびえていた寛永期の天守は伏見城から移築されもので、取付矢倉と小天守が付属する複合式の層塔型5重5階の天守でしたが、1750年(寛延3年)の落雷で焼失してしまいました。
天守台からは360度京都市内が見渡せます。当時の天守からは京都の隅々まで見渡せたことでしょう!
 
天守台からの本丸

創建当時の本丸御殿は、二の丸御殿にほぼ匹敵する規模をもっており、内部は狩野派の障壁画で飾られていました。しかし天明8年(1788年)の市中大火のため焼失してしまいました。
その後永らく本丸御殿の再建はならず、幕末に15代将軍慶喜の住居として、本丸御殿が建てられましたが、明治14年に撤去されました。

現在の本丸御殿(重文)は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年から27年にかけて本丸内に移築したものです。
京都御所にあっただけに、城の御殿という雰囲気はなく住宅のようです。

本丸御殿

本丸から二ノ丸に戻り、内堀の周りを一周します。
内堀の周りには4つの門があり、いずれも重文です。

南中仕切門

桃山門

その後、再度二ノ丸御殿を見学し、城を出て今度は外堀を南から時計回りに3/4周しました。
まずは西南隅櫓(重文)です。東南隅櫓より小さい気がしますが。。。

西南隅櫓

次に西門(重文)です。今はありませんが、外堀に橋がかかっていたのでしょう。

西門

最後に北大手門(重文)です。大手門だけに立派ですが、こちらは現在使われていないようです。

北大手門

二条城は「城」というよりは「超豪華な大名屋敷」という感じです。しかし今では造れないような豪華な二の丸御殿には感動しました。
この後、金戒光明寺と知恩院へ行きました。

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昼食は、二条城の南にある 喜Bun上Jo で「ふろしき行灯二段重(1600円)」をいただきました。
とってもおいしくて、京都らしい昼食がいただけました。

ふろしき行灯二段重






2011年10月20日木曜日

姫路城 (世界遺産 国宝) 2度目

2011年10月20日に探索しに行きました。

鶴林寺に参拝した後にJRでやってきました。
※鶴林寺参拝に関するブログ
  http://kokuhou-kenzou.blogspot.com/2011/10/blog-post.html

今回は登城ではなく、中濠と中濠に築かれていた門跡を巡るのが目的です。
とは言っても、やはり本丸を見たいので、三の丸広場へ行きました。大天守は現在修復工事中です。天気が非常に良かったので、大天守の姿を写真の収められないのが非常に残念です。

本丸

前回は修復工事開始5日前で非常に混雑していてゆっくり見れなかったので、今回は周辺をゆっくり見ることにします。

現在の入場門の前にある「天守の庭」です。昭和の大修理の際、礎石を鉄筋コンクリートに置き換えた為、従来の礎石がここに配置されています。実際の建物を見た後で見ると、ちょっと狭く思えます。

天守の庭

西の丸の南側に行ってみました。ワの櫓(重文)とカの櫓(重文)が美しく守っています。

ワの櫓とカの櫓

城郭中心部の南側「下山里曲輪」を横切って東側に回り、北へ進んで北側に回りました。
北側は静かな公園になっていて低くて狭い堀が巡っています。本丸へはほぼ直角に近い上方で、木々に覆われていて工事中の大天守の囲い見えるだけで他の櫓は見えません。

本丸北側

しばらく行くと北側に北勢陽門跡がありました。

北勢陽門跡

下の写真は現在の姫路市街の航空写真です(Wikipediaから)。赤線内が姫路城の内曲輪、緑線内が中曲輪、青線内が外曲輪の範囲です。
北勢陽門跡は赤線と緑線が接している辺りになります。今回は緑線(中曲輪)を一周巡るつもりでしたが、時間の関係で南西部分のみになりました。


下の地図では清水門跡から中ノ門までとなります。


北勢陽門跡を出るとすぐに清水門跡があります。現在修復工事中のようでした。

清水門跡

順に巡っていきました。

市ノ橋門跡(右奥に大天守)

中曲輪西側は石垣と水掘が残っています。

中曲輪西側

車門跡

埋門跡

埋門から中濠は東側へ向かい、堀は国道2号線へと変わります。しかし石垣と土塁は残ってします。

中曲輪 南側土塁
南側土塁からの本丸

南側土塁から本丸は遥か先に見えます。中曲輪の大きさを体感した気分です。

鵰門跡

中ノ門跡


現在、中ノ門の東側は大手前通になっています。

今回の探索はここまでです。中曲輪の門まで小規模ながら全てが枡形構造になっていたのには驚きました。さすが名城です!

次回、続きを回りたいとます。



2011年10月1日土曜日

郡上八幡城 047

2011年10月1日 大垣城から移動して登城しました。

大垣城から華厳寺を経て到着しました。結構時間がかかりました。駐車場は城跡横を利用しましたが、ここまで登ってくる道が車1台が通れる程度の大変な道でした。

山城で規模は小さい城ですが、麓に城下町が開けていました。

駐車場横の案内図

駐車場横の石垣

建造物は再建ですが、見た目は美しい城です。

本丸

入場料を支払って門から中へ。


門を入ると正面に天守がそびえています。

天守

本丸がどの程度再現されているか不明です。天守は大垣城を参考に建造された模擬ですが木造です。内部はまったく城らしくありませんが、最初に木造で建造(再建)された城だそうです。

天守内部

天守から本丸

城自体は「ちょっと」という感じです。しかし城下町は美しく、夫婦でのんびり散策するにはいい所かもしれません。


資料

■築城者 遠藤盛数
■築城年 1559年(永禄2年)
■主な改修者 遠藤常友
■主な城主 遠藤氏、青山氏
■城郭構造 平山城
■天守 4層5階模擬木造
■遺構 石垣


 

大垣城 046

2011年10月1日登城しました。

今回は友人の車での美濃城巡りです。
大垣公園に面した大垣城ホールに車を止めさせていただいて、いざ登城です。

本丸東側にある柳口門から入りました。

柳口門

柳口門の右側には外観復元の艮隅櫓があります。

艮(うしとら)隅櫓

門をくぐると、正面に外観復元の天守があります。

天守

小ぶりですがなかなか姿が美しい天守です。
今年3月に修復工事が終わったようなので、白く光っています。
鉄筋コンクリートで内部は博物館になっています。


大垣城は天文四年宮川安定が城郭を築き、永禄四年に大垣城主氏家ト全が城郭の建築工事をほどこしました。

天守の造営は慶長元年に行われ、昭和11年には国宝に指定されていましたが、昭和20年7月29日、戦災で焼失してしまいました。その後、昭和34年4月、昔のままの姿で再建されたようです。
また昭和60年4月、戸田公入城350年を記念して隅櫓や土塀の一部が修景整備されました。

本丸の西側には西門があります。復元ではなさそうです。

西門

本丸の南側には一部石垣が残っているようで、鉄門跡がありました。

鉄門跡

当時は、この門の前が堀で橋が架かっていたようです。
他に遺構はあまりないようです。


この後、華厳寺を経て郡上八幡城へ向います。


資料

■築城者 宮川安定
■築城年 天文四年(1535)
■主な改修者 氏家直元、伊藤祐盛
■主な城主 竹腰氏、氏家氏、伊藤氏、岡部氏、松平氏、戸田氏
■城郭構造 連郭輪郭複合式平城
■天守 複合式層塔型3重4階
■遺構 石垣、曲輪

 
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昼食は華厳寺門前で田楽定食を食べました。
美味しかったですが、伊賀上野城近くで食べた田楽を思い出し、あちらを食べたくなりました。

田楽定食