備中松山城から岡山自動車道⇒中国自動車道と乗り継いで到着しました。
到着前、前方に石垣が見えてきたときは、予想以上の規模と高さに鳥肌が立ちました。
津山観光センターの駐車場に車を止めて、まずは登城前に在りし日の津山城の模型を見るために津山郷土博物館に入りました。
津山城模型
(天守右にあるのが復元された備中櫓)
では登城しましょう!
冠木門を通って枡形を抜けると三之丸です。
冠木門(公園入口)
三ノ丸に入ると中央に四ツ足門があります。当日は発掘調査中でしたが、かなり立派な門だったようです。
四ツ足門
四ツ足門を入ると二ノ丸です。二ノ丸からは本丸の復元された備中櫓が見えました。
備中櫓
二ノ丸東には切手門があり、これを抜けると本丸に入ります。本丸には植木が植えられていて、御殿の面影はありません。
本丸南西に二ノ丸から見えた備中櫓があります。
備中櫓
備中櫓は内部に入れます。
備中櫓は内部
内部は城の櫓というよりは御殿のようで、茶室もあり、二階には上段の間が設けられています。
備中櫓の北側には天守台残っています。
天守台
天守台の大きさから天守の大きさが想像できます。
天守は破風を持たない4重5階の独立型層塔形式で、小倉城の天守を模して造られたともいわれています。築城当初、天守は5重でしたが、その巨大さゆえに幕府に目をつけられたため、森忠政は4重目の瓦を破棄し「あれは庇(ひさし)であって4重である」と言い切り難を逃れたと伝えられています。往時は広島城の76棟、姫路城61棟に次ぐ櫓の多さでしたたが、明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台と石垣のみとなっています。またもや廃城令を恨みます。
往時の津山城
しかし備中櫓が復元されたことから、他の櫓できれば天守の復元を期待してしまいます。
資料
■築城者 山名忠政
■築城年 嘉吉年間(1441年~1444年)
■主な改修者 森忠政
■主な城主 山名氏、森氏、松平氏
■城郭構造 梯郭式平山城
■天守 独立式層塔型4重5階
■遺構 石垣、堀
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登城後、津山IC近くの「えびすのゆ」で汗を流し、焼肉アチャコで津山名物ホルモンうどん(私はホルモンが苦手なので)ではなくカルビうどんを食べました。とても美味しかったです。